家族がi pad proを購入したので、おまけでついていたapple TV 3ヶ月のサブスクリプションのなかに、ぼくが若い頃、大好きだったバンド(今でももちろん大好きですが)The Velvet Undergroundのドキュメンタリー映画があったので、逡巡の挙句、拝見しました。
初めこの作品の存在を知ったときは、自分の夢や憧れを毀してしまいそうで怖いなと思っていました。若い頃に憧れていたルー・リード、スターリング・モリソン、ジョン・ケイル、モーリン・タッカー、そうしてニコの織り成す、唯一無二のハーモニー。自分だけが知っている「帰るところのできる場所」その場所が纏っている、限りないヴェール。部屋の中の秘密。ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」の部屋に存在するルールのように、この部屋の中には、その部屋の住人だけが知っているルールが存在し、そのルール故に生じる夢、幻影、其処にしかない世界の中でだけ、ぼくは生きることが出来ました。そうしてその部屋の外側にある、他人が世界と呼ぶあのぼくにとってはまったく無意味な平野の中では、ぼくはただ生きているフリをするだけで、良かったのです。だってそんな他人にとっては重要でも、ぼくにとってはどうでもよい、ぼくの興味が一切発生しない場所なんて、いつだって打ち捨ててゴミ箱に棄ててしまい、そうしてぼく自身は完全に無傷のまま、なんの不都合もなく、大好きな部屋の中に戻ることができたのですがら。
はじめて”Sunday Morning”を聴いたとき、ここが、ここだけがぼくの居場所だと思いました。そうしてその感情を、愛惜を、このドキュメンタリー映画が壊してしまわないか、そのことに対し、恐怖を憶えました。
外側の世界とは一切関係しないその奇跡的なバランスの上に成り立った大切なものを、だれかがバラバラにしてしまうことで、喪うことが怖い。だから本作を観ることには、非常な恐怖を伴いました。ぼくは関係のないThe Velvet Undergroundの何かを知ることで、ぼくが知っているThe Velvet Undergroundが存在しなくなってしまうことは、ぼくの青春が消えてしまうことと同義だからです。
しかしながら、その心配は杞憂でした。と云うのも、ぼくにとってはThe Velvet Undergroundというのはあまりにも巨大な存在で、心の奥深くに永遠に生き続けており13,14歳から18歳頃までの傷つき易い歳月を、共に生きたあの永い記憶は、たかだか2時間のドキュメンタリーで、1ミリだって傷つくことはありませんでした。ルー・リードもジョン・ケイルもニコもモーリン・タッカーもスターリング・モリソンも私の中であまりにも長い間生き続けており、本作で何か新しい発言や行動を聞いても、「まあルーならそう云うだろうな」だとか、「まあ、ニコならそう長居しないだろうしな」だとか、「やっぱりモーリン・タッカーの優しさが、ある意味バンドのコアだったんだな」とか、「ジョン・ケイルの信じ易さと衒いが、やっぱりバンドサウンドの中核だな」みたいな、全ては古参オタクにありがちな、眉ひとつ動かさない最上段からの、「まあ、そうだよね」「うん、知っている」で片付けられるものばかりでした。
ロラン・バルトの「人は常に愛するものについて語り損なう」との忠告が頭から離れないために、もう少々、ぼくからヴェルヴェッツへの愛について語ります。ぼくの心の最深部に永遠に在るThe Velvet Underground。これからも小生は若い頃ほど熱心にではないにせよ、The Velvet Undergroundを聴き続けてゆくし、結局のところ、この心の最深部の部屋の外の出来事には、今でもさして興味が在りません。The Velvet Undergroundと同じ時代に産まれて(30年くらいの誤差はあるにせよ、宇宙の歴史から見れば、ほぼ同時代と云っても過言では在りません)The Velvet Undergroundに出会って、ぼくは、それだけで、ほんとうに幸せな人生でした。
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