大きな時間の流れと、その流れに翻弄される人間の弱さや儚さを感じさせる作品でした。感覚と言葉との距離の取り方が独特で、なかなか個性的な文体になっていると思います。自分とは全く関係ない他人が街中に描いた絶望を感じさせる落書きとか、冷蔵庫の中に入った贓物、森の中の瀧のような清廉な緑の風が吹く場面といったところまで、舞台を揃える感覚はなかなかに観念的であり、舞台を導き出すスタイリストとしての気配もあります。ともすれば、観念の闇の中でもがく主人公の孤独な男が、例えば食堂で注文したビールとカツ丼を誰が支払ったかということなど、そういうひどく散文的な取るに足りない日常で、不意に引き戻されるような、瞬間が仄みえる。しかし、まだどこか、観念のなかを彷徨っている。幾つになっても成熟しない男の姿が、何処か他人事とは思えない立派な作品でした。
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