濹東綺譚(1992年ATG配給作品)

1992

永井荷風の濹東綺譚は、若い頃から私が大好きな小説の一つで、少なくとも5回くらいは通読しました。パラパラと読むのでは、何十回も手に取っている筈です。若い頃に初めて読んだ時よりも、三十歳を過ぎて再読した時に、この作品の深い魅力に気づくことができました。
濹東綺譚の小説のなかで、私が好きなシーンは、廓外の情味を湛えた古本屋の主人が、いつ行っても、同じ姿勢で本を読んでいるというところです。
このシーンの良さは若い人には伝わりにくいと思うが、30を過ぎた方には、わかるかもしれません。日陰者に対する、荷風の優しさが滲み出ている名場面だと思います。
また、この場面で、昔の雑誌を読むと、「命が伸びるような気がする」というセリフがほんとうに好きです。このセリフを、こんな場面でサラリと書いてしまう荷風の素晴らしさ。。。日記文学の傑作と云われている彼の日記「断腸亭日乗」も、私はだんだん、抄録ではもの足りなくなり、メルカリで全集を7巻ぜんぶ買ってしまいました(^^;)
それからもうひとつ、大好きなセリフがあって、
記憶から書いているので正確な引用ではないが
女が「濡れてしまったね」と云ったのに対して、
「私」が「洋服だからいいよ」と答えるシーンです。
男の優しさというのを表現した名セリフで、このたったひとことのセリフに、荷風の人間を視る眼の奥ゆかしさが現れています。
こちらの映画作品は、濹東綺譚の原作に、戦争の風景と、荷風の生涯の描写を絡めたもので、原作の忠実な再現という趣向のものではないが、前述の私が大好きなセリフは、しっかりと再現されていることがわかって、よかったです。
この映画版には、残念ながら古本屋のシーンは出てきませんでしたが、監督が荷風のことを好きなのは、先ほどのセリフをそのまま使っていることだけでも充分に伝わってきました。
いま拝見しても、溜め息が出るほど美しい墨田ユキさんの、少し勝ち気な中に寂しさを湛えながら、傷つきやすさと少しの居直りを、視線の節々に含ませた存在感。。。それから荷風を演じた津川雅彦さんの、落ち着いた陰のある佇まい、日陰者としてのたくさんの強かさと嫌らしさを湛えながら、それでもどこか静かな場所で世間を観察している遠さというか、存在の希薄さというか、その距離感、彼の中に静かに流れている時間の独自性が、津川さんにしか出せない味だと思います。
新藤兼人監督の語り過ぎない、嫌味のない演出が、荷風の原作の雰囲気や空気感を壊すことなく匂わせながら、日陰の人々のやるせなさを描いて、荷風のファンの方でも、未読の方でも、充分に愉しめる作品になっています。

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