今回は、アラン・パーカー監督の1988年の作品『ミシシッピ・バーニング』を拝見しました。イギリス出身のアラン・パーカー監督は、アイルランドの労働者階級の人々が作るソウルバンドと、まとまるときは凄いけれど火花を散らし合うさまもすさまじい彼らを売り出そうとするマネージャーの気苦労を描いた”ザ・コミットメンツ“」や、麻薬の保持で捕まった若者が、人間を人間として扱わないような刑務所に入れられるというストーリーの”“Midnight Express”“など、虐げられた人々、陽の当らない人々に焦点をあてた作品が印象的な監督です。
特に『ザ・コミットメンツ』は、私が個人的に偏愛している作品でありまして、私が人生で、であった数少ない映画のなかで、ベスト10に入ると云っても過言ではありません。
今回の作品『ミシシッピ・バーニング』は黒人の人権運動に携わっていた三人の若者たちの失踪事件を捜査するFBIと、彼らに対し非協力的で時として敵対的でさえある地元の人々の相克が描かれた作品です。
主演はGene HackmanとWillem Dafoeで、彼らがFBIの泥臭い職員を演じます。スーツを土埃と返り血まみれにしながら、不毛な捜査を続ける様が、とても見応えがあり、引き込まれました。
Gene Hackmanはネクタイもしばしば緩めるが、Willem Dafoeはあまり緩めない、そういうところに、二人の性格の違いを現わしているようです。
アラン・パーカー監督は、ときおり一般住民のインタビュー映像などを挿し込むことで、フェイク・ドキュメンタリー・タッチを織り交ぜて、事件の残虐性と田舎の閉塞感を多角的に描いてゆきます。
FBIの方々にとってのlegitimacyは、しっかりとUnited Statesの法律に基づいたものだが、Unitedされるところの地元のStateに根強く残っている閉鎖的・人種差別的な人々にとっては、それらのlegitimacyはあくまでもむりやりお仕着せられたものでしかなく、彼らの世界観にはまったく相容れないものであり、そのような矛盾のなかで、捜査を進める二人の孤独感が印象に残っています。
国家というものは云わずもがな多数の背景・思想を持つ人々の多面的で重層的な装置ですから、その権力装置の持つlegitimacyというものは黙っていても誰もが享受できるものではなく、人々が常に考え、行動することによって形作られてゆきますが、その途中でこうして多くの若者たちの血が流れています。
また、そうした社会の形成における犠牲は、決して過去に終わった話ではなく、今まさに揺らぎつつある弱々しい土台の上にしか成り立っていないこの社会を、好むと好まざるとに関わらず支える誰かの契約書として、今まさにこの瞬間にもどこかで、誰かの血を流している。そういういうことを、静かに思い出させてくれる作品でした。
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