All of Us Are Dead

2022

今日は、NetflixのドラマAll of Us Are Deadを拝見しました。何度も焼き直しされたゾンビもののドラマですが、ユーモアとサスペンスのバランスが素晴らしく、一方で、高校という舞台を最大限に生かし、傷つきやすい時期の男女の衒いのない視線の交し合いのような演出の、悠々とした枯淡の味わいを、のんびりと堪能できる良作でした。緊迫した作品でありながら、エンターテイメントの要素がサーヴィス過剰なほどに盛り込まれていて、そのあたりの賑やかさの空気も含めて、とても良い作品でした。

何話目かで「ほら、あれだよ、Train to Busanあったでしょう」というセリフがあって、ゾンビドラマのなかでゾンビ映画に言及する、という構図は、無限に繰り返すと一種の騙し絵のようになると思います。ただ、いま私が何の話をしているのかは、もちろん私にもよくわかっていません。

youtuberまで出てきた時はもうダメかと思いましたが、すぐにストーリーに引き戻す呼吸の妙味は、さすがのひとことでした。

先週の時点で日本のNetflixでトップ10中8作品が韓国作品でしたが、これだけ集中的に韓国でヒット作が量産される理由は一体なんなのでしょうか。

本作の白眉はクライマックス付近の展開の抽象性だと思います。歴代のゾンビものの名作を観ますと、あくまでも物語としての論理性 ― 要するに、どうすればゾンビになって、どうすれば死であるというような、空想の中の整合性 ― については、不可侵なものとしてある程度、壊されずに終わることが多く、そうした枠組みを護る心持が、それらの名作たる所以にもなっています。

しかし本作においては、クライマックス付近で映画の中の整合性・論理的可塑性のようなところまで、自由自在に打ち壊していくような凄みがありました。そうした自由な映像空間の中で、ゾンビであることと、ゾンビでないこと、また、その中間のゾンビでも、人間でもない何者かになるということ、その無慈悲な断絶は、イノセンスな子供たちと、すべてを捨て去った救われることのない大人たち、また、そのどちらでもない曖昧な存在のメタファーとして機能しています。

そうした戻ることのできない世界の中で、なお戻ることのできる場所に手を伸ばそうとするかのように、焚火を囲んでいる子供たちの姿は、非常に感動的でありました。子どもたちが持っている、世界を始める底力のようなものが、やはりこのドラマのほんとうのテーマであり、監督Lee Jae-kyoo(Kim Nam-suとの共同監督)がいちばん描きたかったことなのではないかなと、小生は思っています。

若い俳優の皆さん、皆さん好演で、ほんとうに可愛い女の子ばかりでした。Park Ji-huKim Bo-yoonCho Yi-hyun、皆さん可愛かったです。全世界で大ヒットし一世を風靡した、小生も大好きなSquid Gameにも出ていたLee Yoo-miが着ていたピンクのカーディガン姿も、とても可愛かったです。

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