ジョン・フォード監督「捜索者」

1956

ジョン・フォード監督のThe Searchers(邦題:捜索者)を再見しました。今回、2回目の鑑賞ですが、とっても素晴らしかったです。(小学生並の感想)
ジョン・フォード監督の持ち味は、荒々しく暴力に充ちた世界への冷徹なまなざしと、運命を歩いてゆく人々の魂の温かさのようなものを、しっかりと見据えたケレン味のない作風です。
本作や、同監督の「駅馬車」などは、インディアンをステレオタイプな悪役として描いていると目されていることから、現在、アメリカ国内での評価はそう高くない場合もあるのかもしれませんが、後世の映画にあまりにも大きな影響を与えており、人種差別に繋がるステレオタイプはステレオタイプとして、批判的に接しつつも、若い方々にも、ぜひ見て欲しいなと思います。
そう云いつつも、小生自信も、まだジョン・フォード監督作品を数えるほどしか観られておりませんが。小生が若い頃に観たジョン・フォード監督作品のなかで、いちばん好きな作品は「リヴァティ・バランスを撃った男」です。以下、「リヴァティ~」のネタバレを含む文章です。
「リヴァティ・バランスを撃った男」は、理想を追い求め、理想を語り、最終的にはアメリカの大統領にまで上り詰めながら、ほんとうは徹頭徹尾「何もできない」存在でしかなかったジェームズ・スチュアートの「無力感」を、現実のなかで斃れてゆく、名もなき荒くれ物(逸れ者)=Exileとしてのジョン・ウェインが死をもって成し遂げた、この世界の可能性を押し広げるような大きな契機を対比しながら、我々が普段かんたんにこれがこの「世界だ」と云っているこの世界のなかに、決して名指しされることのない限りない強さを含んだヒロイズムが存在し、そうしてその名前のない偉大さというものに、我々は決して敬意を払うこともなく、そうして、ジェームズ・スチュアートは、最後に大地に咲く花を眺めるのだが、そこに咲いている花が、ただ咲いていることの美しさを思いながら、故人の(ジョン・ウェインの)お蔭だったということを、他人に伝えることができない、語ることさえもできない、そういう無力さに打ちひしがれながらも、とりもなおさず明日へ向かうのだという、監督自身の深い諦めの心情が含まれています。
そうして、その無力感は、同時に、自分がヒーローになれなかったことの記憶と、ヒーローであった個人への憧れの心情でもあるのです。
本作「捜索者」においても、ジョン・ウェインはあくまでもExileとして、夜の果てのようなところを彷徨っている。周囲の人間は、隣にいながらも、その魂の暗闇の底を見つめることができない。ジョン・フォードの重層的なカメラは、隣どうしにありながら、決してお互いに乗り超えることのない深い闇を、見つめ合う視線のひとつや、交し合うセリフのひとつに、丁寧に、まっすぐな心持で描いてゆきます。
それらの強烈な人間関係の描写が、安易な構造や形式に決して陥らず、ジョン・フォードが見つめた魂の複雑な鬩ぎ合いそのものの緊張感を保ちながら、ゆったりとしたテンポで、じつに濃厚に、画面に横溢してゆくさまは、まさに神業というよりほかに言葉が見当たりません。
オーソン・ウェルズ監督や、ジャン=リュック・ゴダール監督など、小生が大好きな偉大な監督たちにも、おおきな影響を与えているジョン・フォード監督の作品は、いま観ても大きな驚きに充ちた作品になっています。
皆さんも、機会があればぜひご覧になってみて下さい。

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