安岡章太郎さんが自身の親戚の系譜を読み解きながら、近現代の世相の中で、市井の人々の生き方や心情、屈託といったものに細やかに思いを寄せてゆくエッセイ風の小説、と云った方が良いのか小説風のエッセイ、と云った方が良いのかよくわからないが、『鏡川』という作品を拝読しました。
この本は、前半は元高知県知事を勤められた親族の方とその周囲の人間模様を中心に話が進みます。そうして後半は、やはり、また安岡さんの親戚の、なんらの功績も為していないが、独学で生涯、漢詩を作り続け、その詩は結局、本になったり売れたりということは一切なかった、とある人物を中心に、話が進んでゆきます。
『鏡川』は、安岡さんが、中国の怪奇小説家、蒲松齢について書かれた、同じく小説とも、エッセイとも取れない作品『私説 聊斎志異』と云う、私が大好きな作品の読みやすさ、痛快無比の面白さと比べて、ずいぶん地味で淡々とした、枯淡な味の文章による本で、私は数年前に何処かの古書店で本書を購って以来、何度か読もうとして中途で辞め、また最初から読み始めると云うのを、4,5回ほど繰り返して来ました。
しかし、昨年末に5回目か6回目で読み始めて、正月3日に読了しましたが、今回ようやく最後まで読んで、私にもようやく安岡さんが、このようにあちこち脱線しながら、ともすれば退屈になるような些細なことを含めて、そうしてじっくりと書いていったのか、心で理解したように思いました。
安岡さんは誰も語らないようなことをじっくりと語ることによって、安岡さんの親戚にいた日の目の当たらない漢詩人の性格、生き方、そうしてその詩の美しさを紐解いてゆきました。
誰かを語るときに、その誰かを取り巻く人々の息遣いを、時代の屈折を、鏡川をはじめとする風景や、地域の営為を、ひとつずつ語ってゆく。それは考えてみれば当たり前のことですか、とかく私などはそんなことをしなくても、この人について語りたければ、その人のことを語ればいいじゃないかと思いがちで、そういう安直な考えだから私には安岡さんのような素晴らしい文章が書けないわけですが ーー 安岡さんのような一流の小説家にとっては、そんな安直な考えは、考えるほどのことでもなく否定すべきことで、つまり、この売れない、不幸な漢詩人ひとりについて語るために、安岡さんにとって、近道というものは全くなかったわけです。だから、安岡さんは、この漢詩人を描くために、必要であれば、それがどんなに迂遠な道であっても、淡々と歩む自然な覚悟があったのでしょう。
いつも財布はスッカラカンで、いつもボロボロの服を着て、安酒をすすってばかりの友達0人の私ですが、こんな私でも、いや、こんな私だからこそ、この本で紹介されている売れない漢詩人の詩が、深く心に沁みました。安岡さんの念入りな文章によって、この美しく気高い詩を書いた詩人の境遇が、非常に入り組んでいて、決して行き倒れたり、孤独な境涯を過ごしたということではないが、ある意味では不幸せであったことであるのみならず、何か彼の抱えている弱さのようなものが、そのまま彼の心中を蝕んだということが、よくわかります。そうした、いわば穴だらけの心、虫食いだらけの使い古した心の奥底から、ようやく拵えられた彼の晩年の詩の美しさ・・・皆さんも、機会があれば、ぜひお読みになってみてください。
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